Section 1
「なぜその指標が企業価値向上につながるのか」で考える サステナビリティ情報開示の在り方
人的資本情報開示を取り巻く世界と日本の最新動向~有価証券報告書開示2年目以降を見据えて
2023年3月期決算以降の企業から、有価証券報告書における人的資本情報を含むサステナビリティ情報開示が始まりました。開始から1年が経過した現在、多くの企業では自社の取り組みを振り返り、課題を総括しているのではないでしょうか。オープニングセッションではEY新日本有限責任監査法人でサステナビリティ開示推進室 室長を務める馬野 隆一郎が、人的資本情報開示を取り巻く国内外の動向とともに、企業に求められる人的資本開示の対応ポイントを解説しました。
人的資本開示を含むサステナビリティ情報開示の目的は、投資家が企業の価値や持続可能性の評価を判断するために必要な情報を提供することです。馬野は「対応1年目を振り返ると、多くの企業は『どの情報を・どのように開示するか』といった『HowとWhat』を中心に議論をされていました。しかし、これでは開示対応することが目的化してしまいます。重要なのは『なぜ情報開示が必要なのか』という『Why』を原点に、将来における人的資本開示制度の動向と変化を見据えることです」と力説します。
人的資本開示ルールは、各国・各地域の実情や背景によって異なります。欧米と日本の人的資本開示ルールの特徴を比較してみると、欧米の基準は、比較可能性を高める規定や労働者の人権に関する規定など、社会の公平性を実現するための規定が多く含まれています。これに対し日本の基準は、有報への人的資本・多様性に関する具体的な取り組みの目標、実績の開示などを義務付けているのが特徴です。
では、今後はどのような点に留意し、人的資本を含むサステナビリティ情報開示への対応をすべきなのでしょうか。馬野は「企業価値向上につながる情報開示への“軸”を明確にし、長期ビジョンやパーパス(企業の存在意義・理念)、次期中期経営計画との整合性を図ることが大切です」と説きます。
グローバルで共通している情報開示要求の“柱”は、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」です。これらを基軸に人権の保護や男女の公平といった多様性指標の改善などを、企業価値向上のKPI(Key Performance Indicator:重要業績評価指標)としてどのように位置付けるかを検討するのです。
馬野は「多様性をKPIとすることは難しいという企業が多いのですが、これらは投資家のみならず、学生が就職先企業を選択する上でも注目しています。労働市場において非常に関心の高い指標であることを認識した上で、適切な対応が望まれます」と指摘します。
企業価値向上につながる人的投資関連指標の設定は、「なぜその指標が企業価値向上につながるのか」といった「ストーリー」を明確にし、自社の独自性を意識する必要があります。また、重要なKPIの策定は特定部門に依存せず、経営層を巻き込んだ全社的な取り組みとすることが成功の秘訣(ひけつ)だといいます。
最後に馬野は、「情報開示対応にはコストと時間がかかるため、情報収集や開示の作業自体が目的化してしまいがちです。しかし、目指すべきは自社のサステナビリティに関する取り組みを、投資家をはじめとする社会全体に評価してもらうこと。そして人的資本経営の実践を通じて人財の価値を高め、企業価値向上につなげることです」と力説し、セッションを締めくくりました。
Section 2
「人的創造性」を成果指標に多様な人財づくりを目指す オムロンの「長期ビジョンを見据えた人的資本経営」
価値創造にチャレンジする多様な人財づくり
続いて登壇したオムロン株式会社で取締役執行役員専務CHRO 兼 グローバル人財総務本部長を務める冨田 雅彦氏は、「価値創造にチャレンジする多様な人財づくり」と題し、オムロンの長期ビジョン「SF(Shaping The Future)2030」の実現に向けた人財戦略について講演しました。
冨田氏は、「人財戦略の本質は、10年単位の長期ビジョンに掲げた目指す姿を実現するため」であると訴えます。
2022年にオムロンが公開した長期ビジョン「SF2030」の人財戦略を考える際、「人財戦略と企業価値向上の関係性を熟考した」といいます。「自問自答を繰り返した結果、事業のトランスフォーメーションを実現する人財と組織のカギを握るのは、『ダイバーシティ&インクルージョン(以下、D&I)』であるとの結論に至りました」(冨田氏)。
D&Iを実現する上で求められる人財は、「社会的課題の解決を志し、その実現に向けてスペシャリティを自ら磨き続け、チームを大切にして自らリーダーシップを発揮できる人財」だと冨田氏は説きます。オムロンではD&Iを加速させる施策として、「専門人財のグローバルでの採用」「女性活躍の推進」「多様な働き方の選択肢の提供」「ジョブ型人事制度」など、8つの取り組みを掲げています。オムロンではこれらの取組に集中し、「人的創造性」を向上させるように努めているといいます。
「人的創造性」とは付加価値額を総人件費で割った人件費当たりの付加価値額で、オムロンが独自に設定した人材戦略の成果を測る指標です。冨田氏は「これを3年間で7%引き上げるのが2024年度の目標です」と説明します。
では付加価値額を成長させるには、どのような因子が考えられるのでしょうか。冨田氏が人財と組織の観点から挙げるのは「ヘッドカウント」「ケイパビリティ」「モチベーション&エンゲージメント」です。
ヘッドカウントとは、適所適財を実現する人財ポートフォリオを指します。ケイパビリティとは、能力開発の観点から見た人財価値を高めるための人財開発投資です。オムロンでは3年で累計60億円の人財開発投資を計画しているといいます。
一方、モチベーション&エンゲージメントとは、適材適所に配された人財が持てる力を十二分に発揮して働ける環境を構築するものです。冨田氏は「モチベーション&エンゲージメントは、人財価値を企業の付加価値に直結させる最も重要な要素です」と説きます。
オムロンではモチベーション&エンゲージメント向上の一環として、2016年からエンゲージメントサーベイ「VOICE」を、2年に1回の頻度で実施しています。VOICEは海外生産拠点のワーカーを除くグローバルの社員約2万人全員が対象で、回答率は90%を超えるといいます。
VOICEで重要視しているのは、「社員と経営陣との双方向コミュニケーションのサイクルを通じ、社員一人ひとりが社会的課題を解決するという志を実現すること」です。冨田氏は「現在は『Try&Learn』の気持ちでこうした取り組みを実施しています。今、人事でもトランスフォーメーションが求められています。このトレンドを前向きに捉えると、過去のしがらみから解放され、ありたい姿の人財戦略を描き直す良い機会なのです」と説明します。
とはいえ人事政策は社員の働き方や待遇に直結することから、制度導入の納得感の醸成や過渡期の対応など、施策の実施から効果が現れるまでに時間的なギャップがあり、それが変革を難しくしています。こうした課題の解決には、企業の枠を超えた“横のつながり”が役に立つと冨田氏は指摘し、以下のように訴えました。
「ビジネスを担う事業部門とは異なり、人事部門は抱えている課題に共通項があります。ですから他社との情報交換や協力がやりやすい領域です。人財は国の大切な資本です。日本企業がグローバルでもっと活躍できるよう、人財が思う存分自分の能力を発揮できる環境を皆さんとともに構築していきたいです」(冨田氏)。
Section 3
「モノ売り」から「コト売り」のパラダイムシフトで注目される無形資産、社会的価値はどのように算出すべきか
無形資産の可視化と企業価値の算出
近年、環境(Environmental)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)を事業運営に反映させるESG経営が注目されています。特にコロナ禍以降は、“S”(社会)や人的資本が企業価値にどのような影響を及ぼすのかに関心が高まっています。EY JapanでESG経営を追究している牛島 慶一は、「無形資産の可視化と企業価値の算出」と題し、人的資本をはじめとする無形資産やESGへの投資を、どのように企業価値に結びつけるかを解説しました。
無形資産とは「企業の財務諸表に直接的に現れないが、企業の価値や競争力に大きく影響を与える資産」を指します。そして無形資産がもたらす価値は、年々増加しています。
経済産業省が2022年9月に公開した「通商産業白書2022」のデータから読み解くと、欧米ではS&P指標に選ばれている企業の70%以上の企業価値が、無形資産から生み出されていると考えられています。その背景について牛島は、「欧米では経済成長や企業価値を生み出す源泉が、有形資産から無形資産にシフトしています」と説明します。
IT革命以降、産業構造は「モノ(をつくって売る)」から「サービス(を提供する)」へシフトしました。それに伴い、サービスを創造する人的資本にも関心が高まっています。「(製造業が中心の)日本の産業構造はモノに投資をしていますが、それを問い直さなければならない時期に来ています。今後、日本企業が無形資産に対する戦略を強化するには、自社が市場でどのような競争ポジションにいるのかを客観視し、人的資本の戦略も含めた経営戦略を明確にする必要があります」(牛島)。
企業価値の考え方や訴求方法は多様化しています。牛島は「価値創造のパターンモデルは『Long-term value型』と『Total value型』に大別できます」と説明します。
「Long-term value型」とは「企業の価値は経済的価値である」という従来の視点に立脚しつつ、従来の純現在価値では反映されない将来の収益に関係する無形資産の価値を、積極的に訴求するモデルです。
一方、「Total value型」は、企業価値を「経済的価値と社会的価値の総和」と定義し、ビジネスを通じて創出される社会的価値を計測するモデルです。企業価値の考え方を、株主価値に帰着する経済的価値だけではなく、社会的価値も含めた総和を最大化することとして捉え、それを経営戦略や意思決定に組み込んでいくのです。
「Total value型」で特徴的なのは、「インパクト会計」のアプローチを採用していることです。これは企業が社会的・環境的な影響や成果を数値化し、計測・評価する会計手法です。企業の持続可能性や社会的な貢献を評価する指針として用いられています。
牛島は「インパクト会計の算出方法などは実証段階ですが、採用する企業も徐々に増加しています」と指摘し、企業の社会的な貢献や環境への配慮を評価する判断材料に有用であるとの見解を示しました。
Section 4
人が育つ職場づくり、成功のポイントは「相互フィードバック」と「共有メンタルモデル」
人的資本経営の推進に求められる職場マネジメント
人的資本経営を実現するには、その“現場”となる「職場づくり」が重要です。立教大学 経営学部経営学科で准教授を努める田中 聡氏は、「人的資本経営の推進に求められる職場マネジメント」と題し、職場マネジメントの在り方に焦点を当て、現状の課題をつまびらかにするとともに、今後求められる職場づくりのポイントを解説しました。
人的資本の価値向上に資する最大の学習資源は「職場」であると田中氏は説きます。経営コンサルタントのマイケル・ロンバルド氏とロバート・アイチンガー氏が1996年に発表した「Career Architect Development Planner」※Michael M. Lombardo (Author), Robert W. Eichinger (Author), Career Architect Development Planner (Lominger; 5th edition, January 1, 2010) によると、ビジネスパーソンの学習に影響を与える学習資源の内訳は、70%が「実務経験」、20%が「上司や先輩からのフィードバック」、10%が「職場外の教育機会」だといいます。つまり、人的資本経営成功の可否を握るのは「人が育つ職場づくり」なのです。
では、チームの責任者であるマネージャーは職場の現状をどう捉えているのでしょうか。
コロナ禍によるリモートワークの普及で、対面でのコミュニケーションは激減しました。その結果、チームの一体感は失われ、エンゲージメントが低下したと言われています。しかし田中氏は、「そもそも表面化していなかったチームの課題が顕在化しただけです」と指摘します。
「安定した経営環境ではマネージャーがリーダーシップを発揮し、チームを率いてきました。しかし、不確実性の高い経営環境では、全員でチームを動かす『シェアド・リーダーシップ』の考え方が主流になるのです」(田中氏)。
シェアド・リーダーシップとはメンバー一人一人がリーダーであると認識し、チームを動かすという考え方です。そして成果が出るチームとして最も必要なのは、チームメンバー間で共通の理解や知識を持つ「メンタルモデル」を共有することだと田中氏は説きます。
「メンタルモデルをチーム内で共有できているかどうかは、チームを成功させる上で非常に重要です。チームメンバーどうしで自分が抱えているタスクや課題、プロジェクトの目的などを相互にフィードバックし合いながら、それぞれの知識や経験を生かしてプロジェクトを進めていくのです。メンタルモデルをそろえないまま行動の在り方を議論しても、チームは前に進みません」(田中氏)。
実は、“こけるチーム”が重視しがちなポイントに、「良い人間関係を保とうとすること」があるといいます。しかし、質の良い関係性を構築することが目的化すると、摩擦を生むような議論を避けるようになります。その結果、相互フィードバックが生まれずに個人のタスクがブラックボックス化し、チームとしての相乗効果が得られなくなってしまうのです。
田中氏はチームに相互フィードバック文化を根付かせるためのポイントとして、「目的の共有化」「グラウンドルールの設定」「役職者の率先垂範」を挙げます。
「相互フィードバックの目的を明確化することで、目標に向かってチームを前進させるために他者をおもんばかる “思いやり行動” がとれるようになります。また、相互フィードバックは継続が大切ですから、一定のルールを策定して形骸化させないことも重要です。さらにマネージャーは積極的にフィードバックを求め、自らの行動を変えていくことを心掛けなくてはなりません」(田中氏)。
最後に田中氏は職場のマネージャーに向け、以下のようなアドバイスを贈りました。
「『強いリーダー』という呪縛から自らを解放し、メンバーにチーム視点を促す『権限移譲』をしましょう。『できる上司』ではなく『話しやすい上司』を目指してください。そして、自らのウェルビーイングをおろそかにしないこと。自分自身がサステナブルな働き方をすることも、チームを成功させるうえで重要な要素なのです」(田中氏)。
昨今の価値観の多様化に伴い、企業価値の捉え方も変化し続けています。企業はその変化の方向性を俊敏に捉え、投資家とステークホルダーにとって有益な情報とは何かを判断し、適切に情報を開示しなければなりません。最後にEYアジアパシフィックピープル・アドバイザリー・サービス日本地域代表パートナーである鵜澤慎一郎は、「今回のセミナーで、これまで漠然としていた情報開示の詳細と論点整理ができました。同様に(本書)『人的資本経営と情報開示 -先進事例と実践-』が、これからの人的資本経営や企業価値を向上させる取り組みの一助となることを期待しています」と語り、セミナー全体を締めくくりました。
サマリー
人的資本の価値向上に対して積極的に取り組んでいるオムロン社の最新事例紹介や、アカデミアの視点から見た職場マネジメントの考察とともに、EYの専門家によるグローバルの人的資本情報開示に関する最新動向や、市場における企業価値測定方法が紹介されました。