現代は、人的資本の時代である
「戦略が先か、組織が先か」。この経営戦略の議論の転換点になったのが、1997年、マッキンゼー・アンド・カンパニーによる「企業が人を選ぶのではなく、人が企業を選ぶ時代だ」という宣言です。デジタル化をはじめとする事業環境の変化に伴い、企業活動に必要な人的資本は均一的な労働力(Human Resources)から知的労働の源泉としての個人(Human Capital)へと変質しています。鵜澤は、「人を資源(Resource)ではなく、資産(Capital)として捉える潮流だ」と言います。資源は使い切ったら終わりですが、資産はそれ自体が価値の源泉です。
「日本の大手企業の経営層は、皆さん口をそろえて“日本企業のビジネスモデルは変革を迎えている”とおっしゃいます。昔は“モノ作り”の時代ですから、均一的な労働力を必要な分だけ確保すればよかった。しかし現在は、製造業であっても“コト作り”のようなストーリー体験やサービス提供が求められます。そして、そのためには才能や豊富な経験を持ったサステナビリティ経営を推進する際には、ESGのS(Social/社会)領域で中心的な役割を担う人的資本の重要性が高まっています。多様な個人と、その個人の力を生かすことのできる組織や労働環境が必要です」
現在は、コンサルティング業界やハイテク業界など、個々人の専門性が重要視される業界を中心に、優秀な人材を引き入れるための人材獲得競争が激化しています。
「2000年以降、インターネットやエマージングテクノロジーの発達により、市場の移り変わりが非常に激しくなっています。かつては戦略の検討や導入に長い時間をかけることができましたが、現在は戦略を吟味しているうちに市場そのものが変化してしまいます。
常に変化を続ける市場のニーズに応えるような新しい体験やサービスの多くは、社員の自律的な判断に基づく『まずはやってみよう』から生まれます。社員のそうした行動を喚起するためにはどのような変革が必要か、そして、変革を成功させるには何が必要かを考えることが不可避となっています」
人を中心に据えなければ、企業変革は成功しない
人材価値を高めるためには自社の個別性に基づき、企業戦略と人材戦略を連動させることが重要です。脱炭素やフードロス削減などの場合は同業他社の取り組みが参考になりますが、人材戦略に関しては自社の理念や事業の目指す方向性によって決まるもので、企業によって全く異なります。
鵜澤は企業戦略と人的資本の決定的な違いとして、「変革に要する時間の長さ」を指摘します。企業戦略はその気になれば明日にも変えることが可能ですが、人はそういうわけにはいきません。経験や知識を持たない人が、デジタル人材やグローバル人材に成長するためには相応の時間を要します。そのため、人材価値を高めるためには長期的なシナリオを組み立てることが求められます。
EYとオックスフォード大学のサイード・ビジネススクールが共同で実施した、企業変革についてのグローバル・リサーチを参照してみましょう。変革に際しては、経営幹部も従業員も振れ幅の大きい感情の揺れ(エモーショナル・ジャーニー)を経験することが分かっています。初めは企業変革に気持ちが盛り上がりますが、すぐに「思ったより、大変なのではないか」「うまくいかないのではないか」といった失望期を迎えます。プロジェクトの成否は失望期の感情的な下降から、再びモチベーションを取り戻せるかどうかにかかっています。
「リサーチによって、成功率を高めるための主要ドライバーを特定しました。“ビジョン”“感情面のサポート”“テクノロジー”“プロセス”“リーダーシップ”“文化”の6つです。分かりやすいのは“感情面のサポート”ですが、実はいずれのドライバーも人が中心に据えられています。
企業や組織は往々にして人の持つ力を過小評価してしまいがちです。人のストレスや抵抗感を軽んじた状態で企業変革を成功させるのは、非常に難しいと言わざるを得ません。しかし反対に考えれば、人を味方につけてしまえばプロジェクトの成功率はグッと上昇するということです」
制度を生かすためには、業務基盤整備や組織風土改革が必要
企業経営における人の重要性は高まり続けており、そのため人的資本に関する情報は特に経営に与える影響が大きいものとして投資家やCFOからの関心を集めています。世界的に人的資本情報を開示する動きが広まっており、日本においても2023年3月期決算から、男女賃金格差、女性管理職比率、男性育児休業取得率の有価証券報告書への記載が義務化されました。
桑原は日本企業の現状について、「『企業理念の明確化』『経営戦略の明確化』などは行われているが、『後継者計画』『人材ポートフォリオの定義』など経営戦略と連動した人材戦略の策定・実行、すなわち人的資本経営に関する取り組みは総じて進んでいない」と指摘します。
「日本では人材の採用や育成に関して、これまで人事部という一部門が担ってきました。しかし、企業価値を上げていくための人材戦略には、各部門、特に事業側との連携が不可欠です。先進的な企業は、「人的資本経営」という言葉が生まれる前から全社一体で人材戦略の実行、人事施策の展開を行っており、ようやく時代が追いついてきた向きもあります」
ケーススタディとして、桑原は複数の先進企業による取り組み事例を紹介しました。数多くの企業がダイバーシティ、エクイティ&インクルージョン(DE&I)を重要課題として掲げています。DE&Iの実現に向けては、「人材マネジメント基盤整備」「業務基盤整備」「組織風土・環境整備」の3つが大きな柱となります。
制度に関しては、マイノリティの幹部登用を促進するスポンサーシップ制度や、自律的なキャリア支援のためのメンター制度などが広く知られています。しかし、その制度を有効に働かせるためには、業務基盤整備や組織風土・環境整備が必要不可欠です。
「DE&Iの実現において忘れてはならないのは、自社内部だけでなく、お客さまや取引先の理解を得られなければ、困難であるという点です。例えば、上位へのキャリア形成支援として、女性をはじめとしたマイノリティに重要業務の経験を積ませようと計画しても、取引先がそれを拒否するようでは成立しません」
幹部・役員における男女比率のひずみは経営リスクを伴う
人材マネジメント、業務基盤、組織風土の三方面からなる改革は、従来の人事部における業務範囲を大きく逸脱しています。鵜澤は、日本の人事部長と海外のチーフ・ヒューマン・リソース・オフィサー(CHRO)では期待される役割が大きく異なっていると補足します。CHROは一般的にCFOと並んでCEOの右腕となるような重要ポジションです。CEOとの会話や経営会議の中で事業領域にも精通していますから、事業の観点から人的資本経営の推進ができます。しかし、日本の人事部長は給与計算や人事制度のスペシャリストにとどまっていることが多く、社長や幹部役員とは距離が遠いのが現状です。
今後、日本の多くの企業にとって、人的資本経営を効果的に推進するためには伝統的な人事部門のリーダー像や役割分担を企業価値の観点から見直す必要があります。
そのような中、日本政府は内閣府令の改正等を通じて女性活躍推進の動きを加速させています。企業が国の要請に従って数値目標を掲げ、女性の役員や管理職への登用を進めることについての受講者によるディスカッションでは、「組織内の男女比に合わせた目標設定が大切」「事業戦略としてオープンに行うと、ねたみやそねみのような不和を引き起こすのではないか」といったさまざまな意見が出ました。
桑原は、男女の社員全体比率と女性幹部・役員の登用率のアンバランスさについて、日本はグローバル水準に照らすとリスキーな状態にあると指摘します。
「女性社員の幹部・役員登用に関して、『実力に見合っていないのではないか』という声が上がることもあります。実力通りに登用した結果、男女の幹部・役員比率に差が出たのだと。しかし、それは裏を返せば『女性には能力がない』という主張と同義です。極端な男女比率のひずみは、例えばクロスボーダーのM&Aの現場においては『男女差別をする会社だ』とネガティブに評価されます。そういったリスクを日本企業は早急に認識する必要があります。人口減少社会において、多様な人材の価値観を尊重し、優秀な人材を積極的に登用するために経営陣や管理職層の意識改革や行動変容が求められています」
サマリー
サステナビリティ経営を推進する際には、ESGのS(Social/社会)領域で中心的な役割を担う人的資本の重要性が高まっており、単なる情報開示活動にとどまらず、人を中心に据える経営(Humans@Center)が今求められています。
人的資本経営には人事部門だけではなく、重要な経営アジェンダとして、全社的な取り組みが必要です。