ネイチャーポジティブへのコミットが必須の時代に
「ネイチャーポジティブ(自然再興)の議論は世界的に始まったばかりで、ここ1年のホットトピック」と池尻は話します。2015年の「パリ協定」で策定された「環境ビジョン2050」の達成に向け、各企業が脱炭素の取り組みに本腰を入れる中で、生物多様性に関する議論が再燃しています。2021年のG7コーンウォールサミットでは、「2030年自然協約」で各国がネイチャーポジティブへのコミットに合意を示しました。
自然を資本として捉えると、世界全体で4万2千種類以上の生物が絶滅危惧種に指定されているという現状は、収支マイナスの状況と表されます。ネイチャーポジティブは生物多様性における赤字の状況を、2030年までに黒字に好転させ、2050年には今まで毀損(きそん)した分も含めて完全回復することを目標としています。
「かなりチャレンジングな目標設定ですが、生物多様性をめぐる問題はそれだけ切迫していると言えます」
自然に直接的ないしは間接的に依存しているビジネスの、世界総GDPにおける割合は約半分とされ、金額換算で44兆米ドル以上とされます。自然の毀損・損失が世界経済に深刻なダメージを与える恐れがある一方、世界経済フォーラム(WEF)のレポート「自然とビジネスの未来」(2020年)は、「ネイチャーポジティブ経済への移行が3億9,500万人の雇用創出をもたらす可能性がある」と指摘しています。再生可能な農業・漁業への転換や、自然そのものを活用したインフラ設計によって、追加の収益や新規雇用創出が見込めます。
生物多様性を守るための国際的な枠組みとしては「昆明・モントリオール生物多様性枠組」(2022年)が基準となっています。これは2010年の生物多様性条約締約国会議(COP)で合意した「愛知目標」の最終評価“不十分”を踏まえ、英国の報告書「生物多様性の経済学」(ダスグプタ・レビュー)を根拠に制定されました。「愛知目標」との大きな違いは、定量的かつ具体的な数値設定が導入されたことです。
「生物多様性は、気候変動などと比べて定量化が困難です。『愛知目標』が失敗した原因は、その点にありました。しかし、定量評価ツールの開発が進み、2023年9月にはフレームワークがリリースされることになっています。
いずれの事業も自然資本と無関係ではなく、今後は大きな変革を求められるでしょう」
気候変動への取り組みのノウハウを生かした保全活動
「昆明・モントリオール生物多様性枠組」の数値目標の一つに、“30by30”と表現される目標があります。「2030年までに陸域、内水域、海域の重要地域を中心に30%保全」することを意味し、各国がその実現に向けた仕組みづくりに動き出しています。
2023年の日本における生物多様性保全率は陸地が約20%、海洋が約15%にとどまっています。政府は国立公園の拡張と質の向上のほか、OECM(保護地域以外で生物多様性保全に資する地域)認定を進める方針を打ち出しました。
「数値上はあと10%程度と近いようにも感じられますが、日本の国土面積において陸地の10%は北海道の面積の約半分に相当します。政府が主体となって保護区域を拡張するにも限度があり、目標を達成するためには地域や企業の協力が不可欠です。
企業が生物多様性の保全に取り組む上で、金融機関の動向が追い風となっています。役割および数値目標が明文化されたことで、生物多様性を対象にしたファンドの数はわずか1年で1.5倍も増加しました。ファンドの運営者も『生物多様性は脱炭素と比べて10倍の速さで取り組みが浸透している』と言い、ここ1年間のスピード感は目覚ましいものがあります」
気候変動への対策で培われてきたノウハウも取り組みを加速させています。気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)を応用する形で、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)が作成されているのは、その好例です。企業としても脱炭素のフレームワークを転用することが容易で、導入を検討しやすいのがメリットです。
ネイチャーポジティブが盛り上がりを見せる以前から、CSR活動の一環として生物多様性の保全に取り組んできた企業も、時流に合わせて活動を再定義し始めています。実際に、大手飲料メーカーは、2003年から続けてきた水源涵養(かんよう)活動をアップデートし、2022年に“ウォーター・ポジティブ”というコンセプトに改訂しました。
ネイチャーポジティブという国際的に大きなトレンドをくみ取り、科学的な知見に基づいて開示する企業はますます増えていくと予想されます。
ネイチャーポジティブの推進力は経済価値を付与すること
企業のコミットメントにおいて、地域社会の理解を得ることもネイチャーポジティブでは重要な課題となっています。長谷川は自然保護の根拠として「日本社会は古くから自然と共存する循環型の社会を営んできた」ことを前提としつつも、実は江戸時代の段階で多くの自然が毀損されていた事実を指摘します。
「欧米の産業が輸入される以前から、江戸時代の人口爆発によって国内には森林資源を取り尽くしたはげ山が多く存在していました。『日本人は伝統的に循環型の社会を営んできたのだから、自然との共存はすでにできている』という認識は見直さなければなりません」
また、消費型の社会構造は毀損・損失だけではなく、過剰な飽和状態をもたらします。海外の安価な木材の影響でサプライチェーンが変化した結果、日本各地の森林資源は放置されたままになっています。日本の気候は植物の成長に適しており、国際的にも自然資本に恵まれた国土を有していますが、現状は十分に活用できていません。
日本政府は「昆明・モントリオール生物多様性枠組」を踏まえ、2023年3月に「生物多様性国家戦略2023-2030」を閣議決定しました。本国家戦略では「自然を基盤としてその恵みを持続可能に利用する社会」を目標としています。その実現に向けて、多くの自治体では地域戦略を掲げています。
「自然資本を活用したビジネスを考える時は、『地域戦略の中でどのような位置付けになるか』に留意して進めることが、鍵になります。事業において必要な保全活動が、その土地の地域戦略に見合っていなければ、協力を得ることは難しいでしょう」
自治体が主体となって生物多様性の保全に取り組んだ例として、兵庫県豊岡市のコウノトリ野生復帰プロジェクトを挙げます。日本のコウノトリは、農薬の普及や生息地の減少を背景として1986年に野生絶滅を経験しています。これを復活させて持続的に個体数を維持するため、産官学民が一体となって推進した結果、2021年時点で約260羽の生息を確認するまでになりました。
この事例が成功を収めた大きな要因は、農家の方々の協力を得られた点にあります。コウノトリの餌場である田んぼの自然再生を進める「コウノトリ育む農法」は、2017年に作付面積が400haを突破。無農薬栽培に移行するコストを、米のブランド化による経済的価値が上回ったことで、地域に新たなビジネスを創出することに成功しました。
「“コウノトリ育むお米”は無農薬だと5kgで4,400円、減農薬でも3,500円で、まさに環境価値を反映した単価設定です。香港やシンガポールなど輸出先6カ国への供給が追いつかないほど好評を得ています。ネイチャーポジティブを成立させるためには、環境を守るだけではなく、『経済価値をどのように付与するか』ということが重要です」
自然資本は共有財であり、ネイチャーポジティブには多様なステークホルダーの利害調整が欠かせません。“保全”という入り口だけではなく、“活用”という出口を用意できるかどうかが、ネイチャーポジティブ事業の命運を分けるでしょう。
サマリー
脱炭素に向けた取り組みとともに、ネイチャーポジティブ(自然再興)への注目が高まっています。「30by30」の実現に向けて日本も取り組んでおり、その達成には地域や企業の協力が必要です。企業がネイチャーポジティブに取り組むためには、いかに経済価値を高めていくかが重要です。