ケーススタディ1:知床に見る、相乗効果を生んだ地域産業との連携
環境庁自然環境局長を務め、長く日本の自然環境行政に携わってきた鳥居氏は、2002年から2005年まで環境省東北海道地区自然環境事務所に勤務し、知床を世界自然遺産として推薦するための業務に携わりました。
「『知床を世界自然遺産に』という声は、それまでも地元から上がっていましたが、類似の自然環境を有する地域は知床以外にも広くあったことから、推薦は難しいとされていました。しかし、2002年に知床を視察した国際自然保護連合(以下、IUCN)の元関係者が、陸と海の生態系のつながりを指摘したことで、推薦への道が開けたのです」
アムール川上流の森林地帯から海に流れ込んだ栄養分が冬季に流氷となって知床近海まで南下し、豊富な植物性プランクトンを育み、クジラやサケなどの主食となる動物性プランクトンの発生に寄与。そして、産卵のために川を遡上(そじょう)するサケ・マスは、希少な猛禽(もうきん)類やヒグマの餌となり、世界的にも珍しい「陸と海の双方にまたがる大きな生態系」を形成しています。陸だけでなく海にも視点を広げることにより、世界自然遺産の
4つの評価基準のうち「生態系」と「生物多様性」を高く評価する機運が生まれました。
「世界自然遺産に登録するためには、遺産としての価値を損なわないよう厳格な保護が求められます。その条件を満たしつつ、地元漁業などとの利害調整を行わなければなりません。知床はすでに国立公園の指定を受けており、さらなる規制に対する反発は容易に想像されました」
環境省は地元漁業関係者に「新たな規制はかけない」と約束し、知床世界自然遺産科学委員会を立ち上げ、科学的なエビデンスに基づいた管理計画を作成しました。ポイントになったのは、漁業関係者が従来から自主的に行ってきた漁獲のルールを、科学的な観点から捉え直し、自然遺産の審査機関であるIUCNに説明したことにあると鳥居氏は指摘します。
遺産登録に際しては、IUCNからサケ・マスの遡上を阻害する治山ダムなどの河川工作物の撤去や改善についても意見が出されました。それについては、対象区域に含まれるすべての河川工作物を調査し、改めて必要性を検討した上で、一部を撤去したり、堤体にスリット(切れ込み)を入れたり、魚道を敷設するなどの改良を加えることで、サケ科魚類の産卵床数を増やすことに成功しました。
以上のような対応は、すべて遺産地域の管理機関(環境省、林野庁、北海道)や関係団体(斜里町、羅臼町、関係漁協等)からなる知床世界自然遺産地域連絡会議と専門家によって構成される科学委員会などが密接に連携することにより、地元における合意形成が図られました。知床の世界自然遺産登録と保全事業の取り組みは、地域産業との連携を探る上でのモデルケースと言えます。
ケーススタディ2:科学と経済の力、地元住民の思いが三位一体となって成功した佐渡のトキ復活劇
トキは、日本を代表する鳥類の一種で「Nipponia nippon」という学名を持ちます。1952年に特別天然記念物に指定されたものの、人工繁殖のめどが立たないまま、1995年には日本産のトキは佐渡トキ保護センターの「キン」1羽のみになってしまいました。
1999年、中国から日中友好の証しとして「友友」「洋洋」の2羽が寄贈され、飼育下で「優優」が誕生したことを契機に、環境庁(当時)が「共生と循環の地域社会づくりモデル事業(佐渡地域)」に着手。同事業では、将来の野生復帰を念頭にトキとの共生を目指す「トキのふるさとづくり」計画が盛り込まれています。
野生のトキが絶滅に追い込まれた主な原因は、餌となるカエルやドジョウなどの生き物に悪影響を及ぼす農薬の普及とされます。環境庁はトキの野生復帰のため農薬を極力使わないよう農家に協力を求めました。当初は理解のある少数の農家から始まったのですが、実際に野生復帰事業が始まり、徐々に空を飛ぶトキを目にする機会が増えるに従い、協力する農家の数も増えるようになりました。
その一つの理由は、そのような農法で作った安全でおいしいお米が従来の価格より高い値段で売れるようになったからです。今ではJA佐渡が農薬を5割以下に低減して栽培したお米をブランド米「朱鷺と暮らす郷」として販売しています。科学、経済の両面からのアプローチと農家を中心とした地域住民の協力により、2012年には放鳥したトキのペアからひなが初めて誕生し、2021年末には、野生のトキは約480羽にまで回復しました。
鳥居氏は、「科学的なエビデンスと同じくらい、地域の方々の思いを動かすことが重要」と指摘します。「農薬を減らすというのは、特定の農家だけの問題ではありません。農作物の害虫や病気は周囲に飛び火するためです。しかも、トキは田んぼに踏み入って稲を荒らしてしまう害鳥ではないかという先入観があります。これまでの米作りの方法を変えることは、農家にとって大きな負担を伴います。それを乗り越えて行動してもらうためには、理屈だけではない感情的な理解も不可欠です」
絶滅の危機にあったトキと地元の基幹産業である稲作農業とが共存する社会をつくったことは、地域住民の誇りにもなっていると鳥居氏は言います。科学、経済、地域住民の思いが一体的に機能したことが、佐渡のトキ野生復帰プロジェクトの成功のポイントとなりました。
ケーススタディ3:震災をバネに“創造的復興”を遂げた南三陸町の復興ビジネス
宮城県南三陸町は2011年の東日本大震災で、津波によって多くの命が失われ、建造物などが流失して甚大な被害を受けました。しかし現在は、山間部の「南三陸杉」の育成に持続可能な森林経営の国際認証であるFSC認証を取得。また志津川湾内のカキ養殖に環境に配慮した養殖漁業の国際認証であるASC認証を取得するなど、従来の地場産業を生物多様性に配慮する形態に転換することでブランド化しユニークな復興を遂げています。陸と海両方の国際認証を「町」規模で取得しているのは、世界的にも極めてまれです。志津川湾に流れ込むミネラルを最大限に生かす循環型産業が高く評価されています。
注目されるのは、“元に戻す復興”ではなく、新たな価値を創出する“創造的復興”に取り組んでいることだと鳥居氏は指摘します。南三陸町では、被災以前からカキの収穫量が減っていたことを逆手に取り、カキ養殖棚の数を3分の1に削減しました。その結果、湾内の栄養分が効果的に行き渡るようになり、カキの養殖期間は震災前の2~3年から1年に短縮されました。
「養殖棚を減らし出荷までの期間が早まることで労働力が少なく済み、漁師の方々が自由に使える時間が増えます。その時間を後継者育成に注ぐことで、地域の過疎化の抑制にもつながっています。いかにして一石二鳥、三鳥の持続可能な循環社会を形成できるかが、ネイチャーポジティブの成否を分けます」
人手不足に悩む地方の農村や漁村などが、都市からの資金援助や人材提供を引き出す上で、脱炭素やネイチャーポジティブの機運は追い風となります。国際認証の更新や国内認知度の向上、企業との関係づくりなど課題は多いものの、豊かな自然資源や生態系を活用した環境サービスは地域活性化の鍵を握ると考えられます。
南三陸町の事例は、地方と都市がそれぞれの強みを生かしながら経済的格差を是正し、お互いに補完し合いながら自立する「地域循環共生圏」を形成する上での手がかりになるでしょう。
受講者との質疑からネイチャーポジティブの今後の課題を考える
――ユニークな資源を持つ地域であればネイチャーポジティブによる活性化に取り組めるが、売り込み要素の存在しない地域では難しいのではないでしょうか。
「そもそも『ユニークな資源が存在しない地域』があるのか、ということを疑ってみる必要があります。知床の自然遺産登録の例では、陸の生態系だけ、海の生態系だけでは独自性を見いだすことができませんでした。しかし、陸と海の生態系におけるつながりに着目することで価値創造のチャンスが生まれました。潜在的な価値はどの地域にも眠っているのではないでしょうか。それを上手に発信することが求められていると思います」
――ネイチャーポジティブが脱炭素のように世界的な潮流にまで発展するのか懐疑的です。
「ビジネスにおいては疑うことも大切です。とはいえ、疑いながらも着手しなければ競争に敗北してしまいます。ネイチャーポジティブを推進するため、今、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)など世界的なルールづくりが進んでいます。このような議論に乗り遅れると、いざ世界的な潮流が訪れた際に、不利な条件下で戦わなければならない可能性があります。科学的な根拠に基づいて、前向きに取り組む必要があるでしょう」
――自然保護の成功事例について、ビジネス的なPRが進んでいないのはなぜでしょうか。大々的なPRを通じて共感性を高めれば、地域の方々の理解を得られ資金も集まるという好循環が生まれると思うのですが。
「ネイチャーポジティブの取り組みでは、どうしても自然との関わりが深い一次産業が矢面に立つケースが多いのですが、ビジネス的なPRに不慣れであるという側面があります。佐渡のトキ野生復帰のようにストーリー性を伴う創造的な発信ができるかどうかが課題です」
「日本の投資家は世界と比較してリベラルアーツへの関心が高いとされています。その理由は経済合理性よりも、文化的に『芸術に理解があるのはスマートだ』とされていることが大きいと考えられます。ネイチャーポジティブに関しても『自然保護に力を入れることは、かっこいい』という世界観を共有することが好循環につながるのではないでしょうか」(池尻)
――ネイチャーポジティブの活動支援を広げていく中で、何が課題でしょうか。
「情報発信は大きな課題です。投資家から見ると、資金の使途が明確でなければ継続的なお付き合いはしにくいでしょう。また、自然保護と営利活動を結び付けることを忌避する日本の風土も課題の一つで、今後は“無償の慈善事業”という枠組みを脱していく必要もあるでしょう」
「2020年代に入るまで、経済活動を中心に自然保護に取り組んだ事例はほとんどありませんでしたが、事態は急速に動き出しています。現在は、“ネイチャーポジティブ”という新しいストーリーを社会に浸透させ、新たな自然保護の形を作っていけるかどうかの瀬戸際を迎えています」(長谷川)
サマリー
ネイチャーポジティブの先行事例「知床の世界自然遺産登録」「佐渡のトキ野生復帰」「宮城県南三陸町の復興」は、科学的視点、経済的観点、地元産業、地元住民の思いなど、多角的な視点を取り入れたことで成功しました。今後は、情報発信やPR活動の重要性が高まると考えられます。