情報開示に現れる人的資本を重視する流れ
現在、多くの企業が人的資本情報の開示義務化に注目しています。2023年1月に「企業内容等の開示に関する内閣府令」が改正され、企業内の女性管理職比率や男性育児休業取得率などの情報を有価証券報告書内で開示することが義務化されました。特に男女賃金格差(ジェンダーペイギャップ)のようなこれまで日本企業が積極的に開示してこなかった情報の開示が義務付けられ、男女間の格差を是正するという政府の方針を反映したものとなっています。
有価証券報告書は「財務状況の報告」という意味合いが強いものでしたが、この義務化によりサステナビリティ領域やコーポレート・ガバナンス領域などの非財務情報についての報告としても重要度が増すことになります。鵜澤は「報告が義務になると、他社と比較されることになります。政府はそれが原動力となって改善に向かうことを期待しており、今後はさらに開示情報が充実していくでしょう」と期待を述べます。
日本企業の人的資本経営に関する動きは後れている
人的資本の情報開示は、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出す「人的資本経営」を実践していく上で重要です。
経済産業省が実施した「人的資本経営に関する調査」の結果によると、経営者は「経営理念や経営戦略の明確化は進んでいるが、本来なら経営戦略と連動するべき人事戦略の策定などは不十分である」と認識していることがわかります。日本企業の多くは、ビジネスの変化に必要な人材戦略の策定・実行が追い付いておらず、人的資本経営が大きな課題となっています。
また、有価証券報告書に義務付けられているのは日本国内における情報開示ですが、今後は財務会計情報と同様に人的資本情報もグローバル連結での情報開示が機関投資家やESG格付け機関から求められます。タイムリーに本社でグローバル人事連結データを収集・分析・開示を行うためには人事データ項目の定義を統一する、人事システムを一元集約するなどの取り組みも求められます。
ケーススタディ:人的資本情報開示推進上の運用課題と解決法を考える
ケーススタディのテーマは、自社の人的資本情報開示の推進責任者に起用された場合に、「推進する際に直面する課題とその解決法を考える」というもの。ポイントとして「巻き込むべきステークホルダーは誰か」「プロジェクト推進ではどんな困難に直面するのか」の2点が論点になりました。
受講者からは、巻き込むべきステークホルダーとして「外部の機関投資家」や「有価証券報告書を担当する自社内の財務・経理部門」などの意見が出ました。さらに「従業員全体を所管する人事部門」「ブランディングや対外発信に関わる広報」「統合報告書を作成するCSRの専門部署」「海外支社」など全社横断的な取り組みを想定した意見が挙がり、社内外の多くのステークホルダーマネジメントが大事になることがわかってきました。
直面する課題としては、「開示すべき情報と開示しない情報の判断が難しい。本来は自社の戦略に沿った指標を開示すべきであるが、他社動向を見ながら、横並びでまずは指標を決めていくのが実態では」という意見のほか「開示する情報の許可を社内で取るのが大変なはず。印象の悪い情報は出したくないはず」という意見も出ました。
鵜澤は情報開示の一つの例を挙げ、次のように説明しました。村井満氏(Jリーグの元チェアマン)のモットーである「魚と組織は天日にさらすと日持ちが良くなる」というのは人的資本情報開示にも通じるところがあります。「ある日本企業は、従業員一人当たりの学習時間が欧米競合企業と比べてかなり低い水準だったのにも関わらず、目標と併せて現状を正確に開示しました。現時点での数字が良くない状況であったとしても現状、将来目標、具体的な改善策を示す動きを見せることで、透明性の高い開示姿勢が市場からむしろ好感されるケースもあります。」
2050年にむけて、日本が再び繁栄するためには労働生産性の向上が鍵
経済産業省は、人的資本経営を「人的資本とは人材を資本として捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上につなげる経営の在り方」と定義しています。つまり、人材を中長期的に価値を生み出す資本として捉え、個人と組織の生産性を上げていこうということです。
これまでの日本企業の多くはモノづくり中心の、いわゆるプロダクトアウト志向でした。「ヒト・モノ・カネ」を経営資源として、人はあくまでモノづくりをするためのひとつの資源として捉えられ、入れ替え可能なリソースと考えられていました。しかしサービスや情報、テクノロジー中心の時代になるにつれて、マーケットや顧客が求めるものを供給するマーケットイン志向に変化し、経営資源の大事さはまさに「ヒト・ヒト・ヒト」に変わりました。優秀な人材を市場で発掘し、職場でいかに定着・活躍してもらうかがビジネスの成否を左右するため、企業経営において人という資本、ならびに人的資本経営の重要度が高まっています。
「日本社会は30年周期で大きく変化すると考えてみるのはどうでしょうか?1960年から1990年までの高度成長期、1990年から2020年までの“失われた30年”を経て今に至ります。2020年から2050年までの次の30年間はどうなるでしょうか?」
現在の予測では、2050年の世界全体のGDPにおける日本のGDPシェアはわずか3.2%に低下すると見られています。これは、1960年代と同じ水準です。2050年の人口で見ると世界の人口構成比で日本はわずか1%程度の存在感しかありません。つまりGDPや人口という量的な観点ではもはや先進国とは言えない状況になるのです。しかし、質の観点、つまり一人当たりGDPで豊かさを見ると日本は米国には劣後しますが欧州先進国と同じ水準で2050年まで推移する見込みも指摘しました。
人口減、1人当たりの総労働時間減の流れの中で、2020年から2050年までの次の30年間を再び繁栄の時代にするためには質を上げること、つまり「個人としても企業としても労働生産性を上げること」が鍵であることを鵜澤は再度強調しました。
労働生産性を上げる人的資本経営を実施する上でカギとなるキーワードが次の3つです。
①DE&I(多様性と包括性)
異なる価値観や考え方の人たちが集まることで、新たな発想が生まれ、イノベーションの源泉になります。
②エンゲージメント
従業員が事業や企業の姿勢に共感し、コミットメントを高く保つことで、良い成果が生み出されます。情報開示のために年1回の大規模調査を行うだけではなく、職場での日常的な人材マネジメントの質を上げるためにはパルスチェックのような短いスパンで調査・分析・施策の実施を行うことが効果的です。
③リスキリング
企業が戦略的に新たな学びの場を提供し、それを実践する場を確保することが人材と組織の双方に良い影響をもたらします。衰退産業から成長産業への労働人口の移行の一助にもなるため、日本政府も推進しています。
日本のリスキリングの現在地とさらなる進化のために必要なポイント
経済産業省は、リスキリングを「新しい職業に就くために、あるいは今の職業で必要とされるスキルの大幅な変化に適応するために、必要なスキルを獲得する、させること」と定義しています。アップスキリング(スキルアップ)で学ぶのが既存スキルの「延長線」であるのに対し、リスキリングで学ぶのは既存スキルの「飛び地」です。それにより、新たな職務への転換や既存スキルとの掛け合わせを促し、高い付加価値の創出を目指します。メリットの一方、企業側からは「ROI算出の難しさ」や「従業員の士気低下」、従業員からは「時間の不足」「生かす場の不足」「学ぶべき内容」に関して不安や懸念の声があがっています。
鵜澤は、「日本のリスキリングは今、黎明(れいめい)期から失望期。これから成長期を迎えられるかどうかの瀬戸際」と話し、リスキリング導入における大切なポイントとして次の6つを挙げました。
①人事主導ではなく、経営主導で考える
②職場の上司−部下のコミュニケーションの中にリスキリングを組み込む
③リスキリング対象人材に関して、次の配属を最初から考えておく
④長期的な時間軸で考える
⑤ターゲットバイアスを持たず、全従業員をリスキリングの対象とする
⑥スキル開発だけではなく、マインドセットと学ぶ組織風土を同時に強化する
2050年という長期的視点で日本社会の構造変化を先に考えることで、リスキリングの意味は単なる学び直しではなく、付加価値の高い成長産業を創出することや企業の生産性向上のために人材のポートフォリオを大きく変革するための手段と位置付けることができるでしょう。
サマリー
「人」は、従来の企業経営では「資源」と捉えるのが主流でしたが、現代では「資本」と捉える人的資本経営にシフトしています。この流れは非財務情報の開示義務化などを受けて高まっているものの、日本の状況は後れています。今後は、DE&I、従業員エンゲージメント向上、リスキリングの取り組みが重要です。2050年の日本社会構造から逆算して、将来の人材ポートフォリオを構築することが必要になります。