企業におけるELSIと責任あるイノベーション
情報センサー2021年11月号 FAAS
EY新日本有限責任監査法人 FAAS事業部 CCaSS 国際公共チーム 吉澤 剛
民間シンクタンク、大学教員を経て2020年に入所。企業や大学、市民社会組織と連携しながら、研究公正やバイオセキュリティなど、科学技術と社会・政策の交錯領域における調査研究と実務に幅広く携わる。ELSIに関して、倫理審査委員会の運営や、英文学術誌のアソシエイトエディターなどの経験を持つ。専門は科学技術政策、知識ガバナンス。PhD。当法人 マネージャー。
Ⅰ ELSIとは
ELSI(エルシー)とは、先進科学技術の倫理的・法的・社会的影響/課題(Ethical, Legal and Social Implications/Issues)を指します。ELSIはもともとヒトゲノム計画を契機として米国の研究プログラムとして開始され、遺伝情報を提供する研究対象者のプライバシーや差別の問題、研究対象者に対するインフォームドコンセント(説明同意)、研究データの共有に伴うセキュリティなどの課題についての人文・社会科学研究が1990年代から進められてきました。米国でのELSIプログラムにならい、2000年代に入ってカナダや韓国、英国、オランダやノルウェーなどで同様のプログラムが立ち上がり、こうした研究実践活動を総称してELSIと呼ぶようになりました。その後、ナノテクノロジーや脳科学、人工知能(AI)やロボットを含むさまざまな分野において、研究開発の際に考慮されるべき視点として、政府や大学、公的研究機関での取り組みが広がりつつあります。最近でも、日本の複数の大学で学際的・共創的なELSI研究センターが創設されたほか、著名なテックカンパニーではそれぞれ独自のAI倫理指針を策定したり、企業研究開発における倫理審査の高度化や普及を目指したりしています。
Ⅱ ELSIの代表的課題
1. エンゲージメントにおける課題
ELSIの代表的課題を<図1>のように整理してみましょう。まず、エンゲージメントにおける課題があります。多様性と包摂(D&I)という最近の標語が示す通り、研究開発や事業にどのような人々がどのように関わるべきかというものです。民主主義的な規範や社会的正義として必要なばかりでなく、より多様なユーザーに寄り添った製品やサービスを開発したり、新しい発想によるイノベーションをもたらしたり、さらに将来の様々な影響について幅広い人々と対話し、取り組みを協働していく機会を提供できます。
2. データマネジメントにおける課題
次にデータマネジメントです。デジタル時代では人々の行動や健康に関する個人情報がビッグデータとして収集・管理・利用されるようになり、各人に合ったサービスの提供によって消費者の利便性が向上しています。その半面、データ提供者による同意やアクセス権、データを他者と共有する範囲や他のデータとの紐づけ、これらデータを管理するシステムのセキュリティなどが課題として多く挙げられています。
3. コミュニケーションにおける課題
そして欠かせないのがコミュニケーションです。データ提供者からの同意に当たっては、研究開発や事業についての適切で分かりやすい説明が必要ですし、そもそも社会的にインパクトのある活動を行う際には、十分な説明責任を果たして一般からの信頼を得なければなりません。そのためには製品やサービスの利用者となる市民に対して、現在進めている活動に対する意識や関心、理解を高めてもらうことも重要になります。
4. インパクトにおける課題
研究開発や事業がもたらす将来的なインパクトについて事前に検討することも、ELSIとして重要な側面の一つです。環境や人体への影響ばかりでなく、軍事やテロなどへの転用可能性についてもあらかじめ適切に分析し、事前対応策と緊急時対応計画(コンティンジェンシープラン)を立てておくことが期待されます。
5. アイデンティティにおける課題
最後に、人間の身体や特性、尊厳にかかわるアイデンティティがELSIの大きな特徴として挙げられます。プライバシーや知る権利・知らないでいる権利、あるいは差別や不平等などと関係するほか、人型ロボットやAIにどこまで権利や責任、「人格」を与えるかという問題は、ELSIを通じて「人間」という考え方そのものに見直しを迫るものともいえます。
Ⅲ なぜ、今ELSIが求められているのか
それではなぜ、今ELSIが求められているのでしょうか。まず、倫理面を考えてみると、先端的な科学技術の発展により、人々の遺伝情報や健康情報、位置情報、あるいは購買履歴やSNSでの言動などパーソナルなデータの収集が進み、それを分析して個人に適したサービスを提供する機会が増えました。技術の個人化により、安全性やプライバシー、人権など、人々の身体や特性、尊厳を脅かすような事態が増え、個人がそれぞれ技術に対する是非についての倫理的な判断を行うことが求められるようになっています。
法律に関する論点としては、技術発展の目覚ましいスピードに対して法制度や社会システムが追い付けず、技術予測も難しくなったことが挙げられます。新しい技術に対して既存の法的枠組みを当てはめることが難しい上、二重、三重の規制が重なることもあり、研究開発を促進するために煩雑な手続きが必要となったりします。情報提供や教育などの手段を織り交ぜ、ソフトローと呼ばれるような緩やかな規制の仕組みを考案・実施することが一つの解決手段となります。
そして社会においては、インターネットやSNSをはじめとして一般市民の声がより広く届くようになり、技術や、それを扱う専門家や組織に対する懸念や不安が顕在化しやすくなっています。いわゆる炎上と呼ばれる社会的騒動は、企業においてもコンプライアンスに対する考え方を改めなければならない事態かもしれません。というのも、コンプライアンスを単なる法令遵守と捉えてしまうと、炎上案件を防ぎきれないからです。それどころか、法律を盾に組織が守られているという状況に対する反感ゆえに、匿名の暴力によって社会的制裁を図るために炎上が発生するからです。
Ⅳ SDGs/ESGとELSI
1. SDGs/ESGとELSIの比較
国際的に大きな挑戦となっている国連の持続可能な開発目標(SDGs)達成に向けて民間企業がビジネスを通じて社会課題に取り組むことが期待される中、環境・社会・ガバナンスの要素を考慮するESG投資が拡大しています。これまで社会的責任投資(SRI)や企業の社会的責任(CSR)など、環境問題への取り組みや社会貢献として行われてきたところ、企業や市民社会からのSDGs的視点の導入は、製品やサービスばかりでなく、企業という組織運営そのものにも見直しを要請しています。
こうしたSDGs/ESGとELSIは何が異なるのでしょうか。ELSIのほうが研究開発段階で検討されることが多いというのは一つの違いかもしれません。加えて、<表1>に示すように、取り組む理由やメリットがそれぞれ異なります。企業がSDGs/ESGに取り組むのは、自分の組織の健全性を示し、投資家の意思決定を支援して、市場からの資金調達を得やすくするという理由があります。また、これにより、組織のイメージや認知度を向上させ、優秀な人材を確保できるというメリットも考えられます。対するELSIは、研究開発を進めている製品やサービスが実用化された際に意図しない社会的な悪影響を回避・軽減するため、現在や将来の倫理的・法的・社会的課題をあらかじめ検討することに特徴があります。こうした取り組みは、貧困層への少額融資制度や、車椅子をスマートな乗り物に変えたパーソナルモビリティ、フードロス削減を目指すフードシェアリングのプラットフォームなど、ソーシャルビジネスやエシカル消費の潮流とも結びついた、企業やソーシャルセクターにおける新たなイノベーション創出の好機とも捉えられます。
2. ガバナンスの重要性
ガバナンスは、SDGs/ESG、ELSIのどちらにおいても重要な観点です。国や業界を挙げてSDGs/ESGへの取り組みが奨励される中、社会的要請への対応や環境負荷の軽減といった付帯的な動機によって各組織が表面的に取り組むことは、かえって「SDGsウォッシュ」という批判を招く恐れがあります。これを避けるには、SDGコンパス(企業行動指針)に示されているようにSDGsを経営へ統合することが必要であり、組織のガバナンス改革が必要となります。同じことはELSIにも当てはまり、「エシカルウオッシュ」とならないよう多様な人材や働き方の実現によって労働環境を改善させ、組織構成員が倫理的意識を高めることで、業務や社会に対する姿勢を整えていくことが期待されます。
一般社団法人日本能率協会「日本企業の研究・開発の取り組みに関する調査(CTO Survey 2020)」によれば、現任のCTO(最高技術責任者)が管掌していないものの今後重要度が高まると思われる業務として、「SDGsや社会課題解決に資する研究・開発活動の推進」とともに「全社的なイノベーション戦略の策定・実行」が多く挙げられており、現在の日本企業にとって社会的に責任あるイノベーションを推進するためのガバナンス体制の整備が喫緊の課題であることがうかがえます。
Ⅴ これからのELSI
ELSIの取り組みは、研究開発や事業の対象が倫理的・法的・社会的に適正であるかを点検するだけでなく、研究開発や事業を進める組織のガバナンスの適正化にも通じ、マネジメントの透明性やオープンさを高め、人材の多様性や包摂を奨励する、将来の望ましい社会に向けた先見的アプローチといえます。EUの研究技術開発の資金配分フレームワークプログラムである「ホライズン2020」(2014~20年)では、科学技術の進展のみならず、社会的公正、平等、基本的人権、競争的市場、持続可能な開発や生活の質まで、さまざまなEU政策との明確なつながりを持たせた領域横断的な課題として「責任ある研究・イノベーション(RRI)」が据えられています。RRIの具体的な政策議題として挙げられているのは市民関与、オープンアクセス、ジェンダー平等、科学教育、倫理、そしてガバナンスです。
これまでのELSIはそれぞれの組織や個人における取り組みに任され、実務的には倫理規程や倫理審査委員会の整備が主でした。RRIなどの新しい潮流を踏まえると、これからのELSIは、単に研究開発段階にとどまらず、「研究開発から生産、流通、販売・購入、消費までの事業プロセス全体にわたる現在および将来の倫理的・法的・社会的課題に対する自主的で先駆的な取り組み」として新たに定義し直せるでしょう。そして、<図2>のように、現場や組織レベルだけでなく、多様な関係者や市民を巻き込んだ政府や社会全体に関わる活動へと広がっていくことが期待されます。
Ⅵ おわりに
これからのELSIについて、倫理、法、社会の各側面に関する取り組みから見てみましょう。まず、倫理を問い直すということについて。一般社団法人エシカル協会では、特に「人や地球環境、社会、地域に配慮した考え方や行動」のことを「エシカル」と呼んでいます。このような考え方や行動は、私たちの望ましい社会像や新たな倫理観に照らして常に見直すことが求められます。具体的にはどういうことでしょうか。例えば、より正確で効率的に遺伝子を改変できるゲノム編集技術を利用して、発展途上国などで蔓延するマラリアを媒介する蚊の撲滅を目指す研究開発が行われています。これはSDGsのゴール3「すべての人に健康と福祉を」の達成に向けた公衆衛生上の期待も高い反面、野生種の蚊を駆逐する可能性が高いことから、ゴール15「陸の豊かさも守ろう」に掲げられている生物多様性と生態系の保全に反するという懸念も示されています。新しい技術によるリスクトレードオフに注意するばかりではありません。SDGsを達成するという手段だけにとらわれるのではなく、私たちが守るべき価値、目指すべき将来について真剣に熟慮することが必要です。
次に、法的側面としてはルールメイキングが挙げられます。新興科学技術に対する法制度の確立はどうしても遅れがちで、法整備を待っている間にビジネス機会も他国との比較優位性も失ってしまう恐れがあります。国会議員や行政官、業界団体や消費者・市民団体などによる協議の場を早めに設け、現行の法制度で暫定的に対処する方策とともに、全員が合意できるルールを策定し、今後の法制化や社会規範の整備に向けた各方面への働きかけなどが求められます。
そして、社会面については長期的価値の考慮があります。ELSIについての取り組みは、現在、SDGsやESGほど企業にとって見えやすいメリットがあるわけではありません。ただし、社会とともに組織が持続可能となるためには、短期的なリスクやリターンばかりに目を向けるのではなく、本当に社会や人々が求めているものを想像し、目まぐるしい時代の変化に流されない事業や成果を追求していくことが大切ではないでしょうか。